【生き残りがいた!】秀次事件の真相と子孫について

歴史

事実上の天下統一を日本で初めて成し遂げた男・豊臣秀吉。

歴史の教科書にも載る超有名人ですが、そんな彼にまつわる謎のひとつとして語られることが多いのが秀次事件です。

秀次事件とは、豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男として生まれた豊臣秀次に切腹を命じ、大勢の側室などもまとめて処刑した歴史上稀に見る惨劇です。

この事件の何が奇妙なのかというと、豊臣秀吉はなぜ貴重な後継ぎに切腹を命じたのか?という点です。

豊臣家は男子が少なく、跡取りに困っていました。そんななか生まれた豊臣秀次は自然に考えれば2代目を継ぐべき存在です。

それなのにも関わらず切腹を命じ、そのまわりの側室や女子供までをも処刑しました。

一般的には秀次の謀反や殺生関白といわれたほどに酷い性格だったからという理由が挙げられます。

しかし、これらの原因は本当なのでしょうか?

ここでは秀次事件についてその真相と生き残りに関する噂を分かりやすくまとめていきます。


秀次事件の真相

まずは秀次事件の概要を簡単におさらいしておきましょう。以下、URANARUというサイトからの引用になります。

秀次事件は1595年7月15日に時の関白、豊臣秀次が高野山にある青巌寺において切腹、自沈した出来事です。「殺生関白」と呼ばれる秀次は傍若無人な振る舞いが多く、息子秀頼に関白職を継がせたい時の太閤、豊臣秀吉が秀次を京都の聚楽第から呼び出して高野山に追放し、秀次は切腹、その妻子39名が京都、六条河原で処刑されました。この切腹から処刑までの一連の出来事が秀次事件です。

この秀次事件はなぜ起こったのか?その真相が歴史ミステリーのひとつとして語られています。

一般的には秀次の謀反というのがこの事件の発端とされているものの、この説を否定する意見が大半です。

そもそもですが、秀次の謀反だという意見を言っているのはあくまでも豊臣秀吉側であって、秀次側の意見や彼を弁護するような資料というものは全て破棄されています。

現在伝わっている秀次事件の経緯というものは、秀吉サイドの言い分のみしか伝わっておらず、秀次の謀反というのも実はなかった可能性が極めて高いといいます。(謀反を起こそうとしていたというのにも関わらず、秀次がなんの準備もしていなかったというのもこの説を裏付ける根拠です)

そこで出てくるのが『自分の子、秀頼の地位を邪魔されたくなかった秀吉の暴挙』というもの。この説も今では一般的になっています。

しかし、最近の研究では秀吉の感情だけではなかったのではないか?という見解が出てきています。以下、日経に報じられた記事からの引用です。

この事件は晩年に恵まれた子供かわいさのあまり、秀吉が秀次をむりやり切腹させたと考えられていたが、矢部健太郎・国学院大教授は「秀吉個人の私情ではなく石田三成ら側近を含む豊臣政権全体の総意で秀次を中枢から排除しようとした事件」とみる。秀吉没後の秀頼の立場について見通しが立たなかったのが大きな理由だという。ただ切腹命令までは計画になかった。「関白職にある秀次を殺すことは、豊臣宗家のアイデンティティーを自己否定する行為だからだ」

理想的な展開は「少し時間をおいて秀次が手放した関白職を秀頼に継がせる形だった」と矢部教授は指摘する。しかしそうした意図に反発した秀次は、本拠地の京都から高野山に移り、自らの意志で切腹してしまう。「現実の方がどんどん秀吉の意図しない方向に勝手に進んでいった」と金子拓・東大史料編纂所准教授は分析する。秀次の自死をどう世間に説明するか、後付けの形で「謀反をたくらんだ」という筋書きを立てねばならなくなったという。

秀次事件についてはまだまだ分からないことも多く、真相は闇の中ですが、最新の研究では秀吉本人も意図しない結果になったという見解が有力のようです。

生き残りがいた?秀次の子孫について

この惨劇のなかでも、運良く生き延びた人たちがいました。

正式な人数は把握されていませんが、秀次と血縁関係があった人物としては3名の生き残りがいたという説が有力です。

そして、この3名のうちの1名が真田幸村の側室となった隆清院です。

隆清院は秀次の娘ですが、秀次事件から運よく助かることができました。ただ、なぜ助かることができたのか?という理由については現在でもわかっていません。

さらに、隆清院については生没年もわかっておらず、謎の多い人物です。

どのような人生を歩んだのか?は分かりませんが、真田幸村との間に2人の子を設けたのは確かです。御田姫(顕性院)、三好幸信が確認されています。

この2名とも子供がいますが、とくに有名なのは顕性院の方でしょう。出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室となっており、岩城重隆を生んでいます。

現在でも秀次の血が受け継がれているのかどうかは不明ですが、少なくとも江戸後期、明治初期の時代までは子孫がいたことは確かです。

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