田岡一雄といえば日本最大の暴力団『山口組』の第三代組長であり、伝説の組長でもあります。
山口組を日本を代表する組織にしたのは何を隠そう田岡一雄であり、彼にはさまざまな武勇伝が残されています。
また、彼は妻・文子氏との間に2人の子供を設けていますが、子供たちは現在何をしているのでしょうか?一方で、日本一のヤクザと呼ばれるまでになった大物・田岡一雄が生まれた家系とはどのようなものなんでしょうか?
ここでは、伝説の組長・田岡一雄氏について詳しく見ていきましょう。
目次
田岡一雄が現代に残す伝説的な武勇伝
田岡一雄が伝説の組長といわれる所以はどこにあるのでしょうか?
彼が山口組在籍中に残した数々の武勇伝やエピソードを紹介します。
1万人の巨大組織を作り上げたカリスマ性
田岡一雄の最大の武勇伝といえば、山口組そのものをここまで大きな組織に育て上げたカリスマ性でしょう。
彼が山口組の三代目組長を襲名したのは1946年のこと。警視庁の公表データによれば、現在の山口組の構成員数は推定でおよそ12,000人ほど。これは日本最大の組織です。
しかし、彼が三代目を襲名した当時はわずか30人程度の組織だったのです。この弱小団体が田岡一雄の三代目体制発足からわずか20年ほどで構成員数10,000人を抱える巨大組織になっていきました。
この田岡一雄の伝説をwikipwdiaなどでは以下のように記載されています。
警察当局によるいわゆる「第一次頂上作戦」のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府33県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。
暴力だけではなく、高収益体制の組織に
田岡一雄がここまで語り継がれている理由のひとつに、ビジネスとヤクザを結び付けたことが挙げられます。
それまでのヤクザといえば、土地代などによるみかじめ料が主なしのぎになっていましたが、田岡一雄は芸能界に目を付けます。
そして彼が設立した神戸芸能社は莫大な収益をもたらす企業となり、山口組発展の大きな礎となったのです。
それまでばくちで生きていくのが一般的だったやくざの世界で、組員に賭け事の寺銭ではなく「正業」を持つことをすすめ、合法事業を営ませたことが発展の大きな理由である。中でも、組内の組織改革は、大きな改革であった。警察の取り締まりや景気の動向に左右されやすいヤクザ社会において、資金源の確立を絶対とした。このため、舎弟や組員の一部を「堅気」の法人団体の長として、一切の組員を持たせず渡世との交渉をさせなかった。こうして組の計画性と安定をもたらした点は その後の活動に大きな布石となった。その結果、1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こすなど、世間の恐怖と批判を招いた。
また、従来は多額の上納金を納めるのがセオリーであったのが、田岡一雄のビジネスセンスによって当時の上納金の額は少額であったというエピソードものこっています。
神戸港の船内荷役業や神戸芸能社などの正業を持っていたため、直系組長からの上納金は毎月数千円だった(六代目山口組の直系組長の上納金は毎月80万円~120万円)。このため、若衆を1人も持たない山老会(古参の舎弟グループ)でも、直参であり得た。
刺青をしていなかった?細かいエピソード
ヤクザ=刺青というイメージがありますが、伝説のヤクザである田岡一雄は刺青を入れていなかったといわれています。
田岡一雄自身も、『若いころは金がなくて入れられなかった。金ができてからはどうでもよくなった。』と語っていたそうです。
このほかにも細かいエピソードを引用しておきます。
強い暴力信奉者であり、「山口組は他の暴力団よりも強くなければならない」という信念を持っていた。暴力団抗争では、逮捕者の弁護士代、服役者の留守家族の生活費の面倒、抗争用の武器の調達費用など多額の経費がかかる。このため、経済的に見れば、暴力団抗争は割に合わない。しかし、田岡一雄は、暴力団抗争を繰り返すことにより、山口組を強い暴力団組織だと印象付けた。これにより、結果的にシノギが、他の暴力団組織よりも有利に働いていった。
神戸水上警察署の一日署長をした経験もあり、自伝によると警察との蜜月時代もあったとされる。青田昇の著書によれば田岡はプロ野球ファンであり戦後の混乱期は地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ、試合が開催できずに嫌がらせを受けていたが、山口組の全国進出以後は野球は国民的娯楽だからとそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。
分かる範囲で家系図を作ってみた
冒頭にも書いた通り、ここまでの人物が生まれた家系ってどんなものだったのか気になりますよね。
それとともに、子供たちは何をしているのか?というのも気になります。
そこで、わかる範囲で田岡一雄氏の家系図を作ってみました。ただし、文献や現在公表されている情報のみから作成しているため、100%正確ではないことをご了承ください。
この通り、田岡一雄氏の両親については良く分かりませんでした。徳島県三好郡の貧しい小作農家に次男として生まれたこと、生まれた当時父親はすでに病死していたことなどはわかっているものの、詳細は不明です。