幕末の志士のなかでも、ドラマなどで頻繁に描かれるのは新選組ですよね。
『新選組のなかで最強の隊士は誰だったのか?』という議論もよくされますが、この議論のなかで無視できないのが芹沢鴨です。
ご存知の方も多いように芹沢鴨は文久3年(1863年)の9月に同じ新選組の隊士であった土方歳三・沖田総司・藤堂平助・御倉伊勢武などの手によって暗殺されました。
暗殺されてしまった上に、彼の出自や過去の栄光に関してはほとんど資料が残っていません。そのため、どれくらい強かったのかが謎です。
ただ、そのなかでも新選組の幹部である実力者たちがよってたかって寝込みを襲わなければ勝てなかったほどの腕前であるというのは事実なわけです。
八木家での暗殺が物語る芹沢鴨の強さ
芹沢鴨関連のエピソードのなかでももっとも有名なのはやはり暗殺ですね。この暗殺方法を見ると、芹沢鴨がどれだけ恐れられていたのかが分かります。
女癖の悪かった芹沢鴨の暗殺を決行したのは、当時の新選組(壬生浪士組)の隊士であった土方歳三や沖田総司などの剣豪たちです。
暗殺の計画は、大の酒好きであった芹沢鴨が酒に酔って寝たところを襲撃するというものでした。そのために、芸妓らを同席させて宴会を開かせました。
この寝込みを襲った暗殺の様子は以下のように伝わっています。
大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。このとき芹沢は八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鉾先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたという。
実行役に関しては諸説ありますが、『新撰組始末記』という資料のなかでは土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助の4名が実行役だったとされています。
神道無念流の免許皆伝だった
芹沢鴨は『力の剣法』といわれる神道無念流の免許皆伝です。
神道無念流という流派は稽古のときであっても軽く打つことは決して許されず、常に一撃必殺のような力強い打ち込みを良しとされていました。このことから、神道無念流の出身者には豪傑のような怪力が多く、力強い剣術を得意とする剣士が多数いました。
芹沢鴨もそのひとりで、体格は新選組のなかでも相当大きかったと伝えられています。
芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかった。豪傑肌の一廉の人物で、常に「盡忠報國の士 芹澤鴨」と刻まれた鉄扇を手にしていた。酒豪で、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかった。
この記述からもわかる通り、新選組の隊士のなかでも浮いていたことは事実のようです。
新選組最強の隊士なのか?
いろいろ見てきましたが、結局気になるのは新選組最強の隊士なのかどうかってところですよね。正直、この部分については実際に戦った記録が残っていないため、正確なことは何も分かりません。
ただし、間違いなく言えるのは新選組の隊士のなかでも3本の指には入ったであろうということです。
新選組隊士はさまざまな武術を極めた各方面の実力者たちです。一般的には土方歳三や近藤勇、沖田総司、斎藤一などの幹部たちが有名ですが、彼らと同じレベルで腕が立った剣術の使い手が、一般隊士のなかにも複数人いました。その代表例が吉村貫一郎とかですね。
その実力者のなかでも、初代局長を務め、壬生浪士組を結成したというのは相当な自信です。自分の実力に自信があった者たちの集まりだったわけで、その隊士たちを束ねていたということはそれなりの力があったという証拠でもあります。
あくまでも憶測ではありますが、『酔っていなければ新選組の幹部誰一人かなわなかった』という話もありますね。あと、事実かどうかわかりませんが、『三人並べて首を一度で斬った』というエピソードも有名です。
このような逸話が残るということは、新選組で一位二位を争うような剣の使い手であったといっても言い過ぎではないでしょう。
力だけではなく、知略や度胸もすごかった
『最強の剣士』というと、どうしても剣術だけに目が行ってしまいます。でも、芹沢鴨が本当にすごかったといわれる所以は、剣術だけでなく、知識量や度胸にも理由があります。
力自慢の隊士たちを束ねて壬生浪士組を結成した度胸もそうですし、近藤勇が見習おうと思ったほどの知識量もそうです。芹沢鴨の教養に関しては、他の新選組隊士などからも一目置かれていたことは確かなようです。
このように、力だけではく心意気や教養も兼ね備えていたというところを考えると、新選組隊士のなかで最強は芹沢鴨と結論付けてもおかしい話ではないような気がしますね。