漫画のワンピースや映画パイレーツオブカリビアンをきっかけに、海賊人気が高まっていますね。
これらの物語で語られる海賊というのはヒーローのように扱われますが、実際には相当な悪党です。現代で言えば、殺人犯や強盗などと同類ですね。
しかし、海賊が実在したことは事実。そのなかで、伝説的な強さを発揮した人物も何人かいます。
そこで、ここでは実際に存在した海賊としてもっとも最強と思われる人物をランキング形式で紹介していきます。
主観も入っていますが、極力客観的な事実に基づいて判断したので、ぜひ参考にしてみて下さい。
※ランキングの判断基準は『強さ』だけでなく、『名声』や『実績』、『人望』なども考慮しています。
目次
伝説&最強の海賊ランキング
それでは実際にランキングを紹介していきます。実在した海賊という意味では無数にいますが、ここでは特に有名で実績の多い8人をランキングしました。
フランシス・ドレーク
フランシス・ドレーク(1543~1596)はイングランド、今でいうイギリス地方の海賊です。イングランド人として初めて世界一周を達成した人物としても知られています。
スペイン周辺の貿易船などを主に襲い、その周辺では悪魔の化身という愛称で有名でした。
彼が1位にランクインした主な理由としては、当時のイギリスの経済を支えていたほどの財力があったからというのが大きいです。
当時のエリザベス女王は彼を意図的に取り立て、多額の金銭を納めさせたといいます。その額は何と当時のイギリスの国家予算であった20万ポンドを優に上回る30万ポンドであったと伝えられています。
イギリスにこれだけの財宝を納めても、フランシス・ドレークの取り分だけで同額の30万ポンドはあったというのですから驚きです。
以下、wikipediaから基本的な経歴を引用しておきます。
フランシス・ドレークは、1543年の2月か3月に南イングランドデヴォンのタビストック(Tavistock)で、プロテスタントの農民で後に牧師となった父、エドマンド・ドレーク(Edmund Drake)と母、メアリ・ミルウェイ(Mary Mylwaye)の間に、12人息子の長男として生まれた。
1577年11月、排水量約300tのガレオン船ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊で、プリマス港を出航。
大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。 その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれる。カカフエゴ号には銀26t、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など合計20万ポンド相当が積載されていたとされる。途中のサン・フリアンにて遠征出航の功労者で親交の深かったトーマス・ドウティを6月30日に自ら裁判長として軍事裁判にて反逆罪として処刑した。遺体は丁重に埋葬されたという。
ちなみに彼は海賊時代の実績を買われ、のちの1588年のアルマダ海戦ではイギリス艦隊の副司令官に任命されています。
鄭一嫂
鄭一嫂は清の時代に活躍した中国の海賊です。意外や意外、この人物は女性であり、女海賊としては間違いなく世界最強の座に付いていました。
彼女が率いた海賊団は『紅旗幫』と呼ばれ、最盛期には7万人以上のメンバーを抱えていたといわれています。
軍事力的も艦隊1700隻と、世界的に見ても稀に見る規模の海賊団でした。
鄭一嫂が率いた『紅旗幫』は、国家軍である清の海軍と戦争になりますが、見事に打ち破り、敗走させます。
そして、清は彼女の実力を認め身分と生活を保障する代わりに海賊団を解散させるという話で和解しました。
国家に身分を保証させるほどの人物は、彼女において他にいなかったのではないでしょうか。
以下、wikipediaから概要を引用しておきます。
鄭 一嫂(てい いっそう、英語:Ching Shih、鄭氏とも、1775年 – 1844年)は、清朝の女海賊である。 元々は石陽といい、幼名は香姑である。
元は妓女だったが、 鄭一と結婚してから海賊となり、世間から「鄭一嫂」と呼ばれるようになった。鄭一の死後、鄭一嫂は紅旗幫という海賊団を率いるようになる。後に張保と結婚した。
ベンジャミン・ホーニゴールド
ベンジャミン・ホーニゴールドは世界的に有名な黒ひげという愛称で知られる『エドワード・ティーチ』を輩出した海賊団の船長です。
海賊として活躍した時期は2年と短期ですが、その間に残された逸話は数知れません。例えば、以下の話は有名です。
ホンジュラスの商船を襲った時のこと。ホーニゴールドは金も人質も要求せず、唯一「帽子」だけを申し訳なさそうに要求したそうです。彼の部下が酔っぱらって帽子を海に捨ててしまったからでした。
ある時奪ったものは「ラム酒数本、砂糖、ショットグラス」だけでした。
これは彼のポリシーでもあったようで、ホーニゴールドは商船からモノを頂戴しているという意識があって、必要以上のモノを奪おうとしませんでした。
海賊は悪者であることは間違いないのですが、どこか心優しく、善人の顔が見え隠れする、そんな海賊だったようです。
ただし、そんな船長に嫌気がさす乗組員は多く、実際にその後有名になる黒ひげことエドワード・ティーチはこの海賊団を離れ、自ら海賊団を創始しました。
エドワード・ティーチ
上で紹介したベンジャミン・ホーニゴールドが率いた海賊団出身の海賊です。
彼は世界的にもかなり有名な海賊であり、ワンピースの黒ひげこと『マーシャル・D・ティーチ』のモデルにもなった人物です。
彼の特徴として、凄まじいほどの気性の粗さと、残忍さが言い伝えられています。
例えば、以下のような逸話が残されています。
無抵抗の船は積み荷だけを奪って人を殺める事はしなかったようだが、一度抵抗すると船に乗る者全員を処刑した
彼は船の乗員が船倉に逃げ込むと、ハッチを閉めて硫黄(brimstone)を詰込んだポットに火を点けて投げ込んで、苦しんで出てくるのを待って殺すという残忍な手も使いました。
部下を呼んで酒を飲んでいた黒ひげが、突然両手で腰帯から二挺のピストルを引き抜いた。その安全装置は外されていた。
黒髭はテーブルの下で引き金を引き、その部下の膝を撃ち抜き大声で叫んだと言う「ときどきこうでもしてやらなきゃ、俺が誰なのか忘れちまうだろう」
まさに海賊にふさわしい凶悪な精神です。
普通では考えられないほどの残忍さは、他の海賊団にも恐れられていたといわれています。
バーソロミュー・ロバーツ
バーソロミュー・ロバーツは海賊たちが群雄割拠した時代の歳末期である1720年代に活躍した海賊です。
ウェールズ地方では類を見ないほどの大海賊団を率いたという記述が文献に残っており、いわゆる大海賊時代最後の大海賊といわれています。
その伝説的な強さは数知れず、例えばイギリス海軍との戦争で15隻の船をわずか3日で沈めたというものや、海賊旗を見ただけでほとんどの商船と海賊船は降伏したといわれているほどの強さをもった海賊団でした。
以下、簡単な経歴です。
バーソロミューは1682年、南ウェールズ生まれとされるが前半生はよく分かっていない。
1719年6月、三等航海士として乗り組んでいたイギリス奴隷船「プリンス」号が西アフリカ沖で同じウェールズ出身の海賊ハウエル・デイヴィス(?‐1719年)に捕獲されたとき、バーソロミューは手下に加わることを申し出た。彼が海賊を志した理由は、奴隷船船長との確執のためとも好奇心からとも言われている。
バーソロミューがデイヴィスの手下となって2か月ほど後、当時ポルトガル領であったプリンシペ(Principe、現サントメ・プリンシペ)攻撃の際、計略敗れたデイヴィスが駐留軍との戦闘で戦死した。残った乗組員は仲間となって間も無く有能さを見せていたロバーツを新たな船長として擁立、早速プリンシペを略奪した。
ジャン・ラフィット
ジャン・ラフィットは19世紀にメキシコ湾を中心に活躍した海賊です。
当時のルイジアナ州知事が彼にかけた懸賞金の額はおよそ300ドルといわれており、これは当時の国家予算の半分に相当する額であったといわれています。それほど、ジャン・ラフィットの力は強大であったことが分かりますね。
さらに、1800年代のアメリカとイギリスの海戦において、ジャン・ラフィットは英雄的な活躍を見せます。
イギリス側に付いていたジャン・ラフィットは、アメリカ艦隊を破壊することなく、略奪だけを行い、金品や財宝のみを目的としました。
そのため、彼はイギリスだけでなく、アメリカでも英雄として知られています。
以下、簡単な経歴です。
何時アメリカに来たのかははっきりと分かっていないが、ジャンとピエールの兄弟は1803年のルイジアナ買収時にはニューオーリンズの Cabildo(フレンチ・クオーターの歴史的建物、1795年にスペイン人の総督の住居として建てられ、ルイジアナ買収の調印が行われた建物。現在はルイジアナ州立博物館となっている。) に居て、ピエールはフレンチ・クオーターのロイヤル通りとデュメイン通りの角に家を買い商売を営んでいた。
ジャンは1803年のルイジアナ買収後、ニューオーリンズ近くのバラタリア に “王国” を設立、米英戦争のニューオーリンズの戦いにおいて、1000人以上の兵士をアンドリュー・ジャクソン側(アメリカ側)に出して Edward Pakenham率いるイギリス軍と闘った。
バルバロッサ・ハイレッディン
ヨーロッパを中心に活躍した海賊で、オスマン帝国の提督でもありました。
映画パイレーツオブカリビアンのキャプテン・バルボッサのモデルであるとも言われています。
いちギリシア人という地位から、海賊で莫大な財を築き上げ、アルジェリアの君主にまで上り詰めた彼の功績は素晴らしいです。
1538年にあったかの有名なプレヴェザの海戦の指揮官としても知られており、数的には圧倒的に不利であったキリスト教徒軍から見事勝利を勝ち取っています。
以下、簡単な経歴です。
エーゲ海のレスボス島の出身といわれる。父親ヤークープ・アーガーの祖先はギリシア人、アルバニア人、トルコ人の諸説あり、スィパーヒーだった。母親はミティリーニ出身の正教徒聖職者の寡婦で、ヤークープ・アーガーと再婚した。夫妻は2人の娘と4人の息子をもうけた。
1503年ウルージはジェルバ島を新たな根拠地とし、フズールが合流した。1504年、兄弟は戦利品の5分の1を差し出すことを条件に、チュニジアのハフス朝のスルタンからラ・グレット港の使用許可を認められた。ジェルバ島とラ・グレットを拠点に西地中海で私掠船活動を展開し、教皇船団、イタリア半島各地を襲撃・拿捕した。1509年長男イスハークもミティリーニを離れ、ラ・グレットで兄弟に合流した。
1531年、カール5世に任命されたアンドレア・ドーリアがスペインとイタリアのガレー船40隻を率いてジジェルとペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラを取り戻しに来た。バルバロッサは南イタリアのカラブリアとアプリアに出向いていたが、急遽アルジェに戻り、メッシーナ海峡でマルタ騎士団の船を沈め、翌年にはスペイン海岸を略奪し返した。1532年、スレイマン1世がオーストリアに遠征している間に、アンドレア・ドーリアは、ペロポネソス半島のレパント、Koroni、パトラ、モレアを占領した。スレイマンはYahya Pashazade Mehmed Beyの軍を派遣して再占領したが、この事件はスレイマンに、海防の重要性を認識させた。スレイマンはコンスタンティノープルにバルバロッサを呼び寄せることにし、バルバロッサは8月に出発した。彼は、サルディーニャ、コルシカ島のボニファシオ、モンテクリスト島、エルバ島、ランペドゥーザ島を略奪し、メッシーナ近郊では18のガレー船を拿捕した。
フランシス・ロロネー
海賊としてはかなり有名な人物で、実在した海賊の列伝などでは最強の海賊として紹介されることも多々あります。ワンピースのゾロのモデルとしても有名な人物です。
彼も残忍な性格で知られており、スペイン海軍との一戦ではスペイン兵の心臓を鷲掴みにしたとも言われています。
この戦いで、スペイン海軍の援軍はすさまじく、逃げ場が亡くなってしまったフランシス・ロロネーはスペイン兵の一人を捕まえ、胸部を切り裂き、心臓を鷲掴みにしたそうです。そして、以下のように発言。
「どっちの方向が安全だ。もしウソをついたら、テメエらもこのようにしてやる」
この状況に恐れおののいたスペイン海軍は正確な情報を彼に伝え、見事逃げ切ったといわれています。
以下、簡単な経歴です。
最下層の貧民の家に生まれたロロネーは、1650年代にカリブ海、西インド諸島に、年季奉公人として送られた。しかし、彼はそこから脱走して様々な島を渡り歩き、いつしかカリブ沿岸のスペイン植民地を荒らしてまわる海賊団に加わった。メキシコのカンペチェの近くで彼の参加していた海賊船が難破した際、追い討ちをかけるようにスペイン軍の攻撃にあう。ほとんどの乗組員は殺されたが、ロロネーは、他人の血を自分自身に塗り、死体の間にまぎれこんで生き残ったという。スペイン人が出発したあと、彼は一部の奴隷の助けを借りて、トルトゥーガ島へと逃れた。カットラス(片手刀)を使うのを好んだ彼は、その武芸と度胸で、いつしか海賊団の首領にのし上がった。
彼と手下たちは、ある町を人質にとって身代金をスペインの統治者に要求した。ハバナの総督はロロネーの一味を撃退するため軍艦を送ったが、ロロネーは逆にその艦を制圧し、1人を除き乗員を皆殺しにした。そして生き残った1人に、伝言をハバナに届けさせた。その伝言で、ロロネーは「今後スペイン人には、いかなる容赦もしない」と宣言した。
まとめ
エピソードを見てもわかる通り、当時から海賊はかなり残虐であったことが分かりますね。。。
人間とは思えない極悪非道で残忍な行為を何の躊躇もなくできた人物たちが伝説の海賊となったのかもしれません。
今でいえばサイコパスといわれてしまうのかもしれませんが、時代が違うと英雄扱いされてしまうんですね。