私の大好きな人のひとりに、ボディビルダーとして活躍したマッスル北村こと北村克己(きたむらかつみ)さんがいます。

伝説のボディビルダーといわれ、2000年に亡くなってしまったものの、今なお多くの人から尊敬されている素晴らしい方です。

個人的には、世間一般の知名度は遥かに劣るものの、その功績や努力に対する姿勢、プロフェッショナル精神などは世界で活躍するイチローや将棋界のレジェンドとなっている羽生善治さんなどに匹敵すると思っています。むしろ、人間性ということを加味するのであれば、マッスル北村さんの方が前者2人よりも個人的には尊敬します。

彼のことを知っている人がどれほどいるかは分かりませんが、何かに向かって努力をしているときや、その努力がつらくなってしまったときにはマッスル北村さんのことを思い出すようにしています。マッスル北村さんが歩んできた道のりや努力のエピソードを知ることで、『自分はまだまだだ!』とか、『こんなところで終われない!』という気持ちにさせてくれるんですよね。

恐らく、年齢的に30歳以下の人はほとんど知らないのではないでしょうか。

逆に、30歳以下であっても、筋肉に興味があったり、努力について深くまで追い求めたことがある人は彼のことを知っている人も多いはずです。

彼はボディビルダーなので、当然筋トレや運動に関する努力のエピソードが多いのですが、スポーツ以外のことでも大いに役に立つはずです。例えば、勉強や仕事など、どこかの分野で大きな結果を出そうと努力をしている人であれば必ず影響を受けるはずです。

学生の頃から天才の片鱗を見せていた

マッスル北村さんの伝説の始まりは、高校時代までさかのぼります。

彼は、小学校から進学校である東京学芸大附属小学校に通っており、そのまま中学・高校とストレートにエスカレーター式に進学していきました。この事実を客観的に見ると、『小学校から凄い優秀だったんだね』とか、『生まれながらにしていい家庭で育ったんだね』ということが言われがちですが、実際は違ったようです。

確かに、生まれた家庭はそこまで経済的に苦しい家ではなかったものの、小学校受験というのは当時、ほぼくじ引きで決まっていたということを本人が語っています。そのため、『自分の意志ではなく、親の意思で入った進学校に運よく高校までエスカレーター式で行ってしまった』というのが本人の感想だったようです。

とはいえ、東京学芸大学附属高校といえば、東大合格者を多数輩出する名門の国立高校です。2017年現在で偏差値は76程度。出身者を見ても、多方面で非常に素晴らしい功績を残している人が多く、学者を中心に著名人が多数います。

そんな高校に在籍していた彼は、スポーツに関しては強い関心を持っていたものの、勉強にはそこまで関心がなく、進学校に通ってはいたものの、学力は周りと比べるとそれほど高くなかったといいます。

東京学芸大学附属高校から東大へ

そんな彼は高校三年から本格的な受験勉強を始め、なんと現役で防衛医科大学校と早稲田大学理工学部に合格してしまいます。早稲田の理工も確かに私立理系のトップではありますが、特に凄いのが防衛医科大学校です。ここは東大理三(医学部)の滑り止めともなっており、なかには東大理三には合格しても、防衛医科大学校には落ちてしまう学生がいるほど難易度は拮抗しています。

そんな防衛医科大学校に現役で受かってしまう実力を受験期の追い込みで付けてしまうということがまず驚きですが、それ以上に驚きなのは浪人の道を選んだということです。

どちらも日本では超難関大学に分類される優秀な大学です。普通であれば、このどちらかに進学をするのが普通でしょう。しかし、マッスル北村さんは浪人の道を選びます。

その理由は、後輩に『先輩は東大いくんですよね?』という問いかけに対して、『もちろん』と咄嗟に答えてしまったことだったそう。

そんな理由で浪人するの!?
と驚く人も多いかと思いますが、咄嗟に出た言葉とはいえ、自分の放った言葉に最後まで責任を持つという性格はまさに天才の片鱗といえるでしょう。

尋常じゃない努力 2浪の末、東大合格を勝ち取る

浪人を決意してから、学生時代のマッスル北村少年は東大にしか目が行かなくなります。

自分の目先の目標は東大一本。それ以外に割く時間は徹底的に短くし、1日のほとんどを受験勉強に注ぎ込む。そんな浪人生活を送るようになります。

しかし、1浪目は残念ながら不合格。現役時代の受験結果は素晴らしかったものの、やはり一人孤独に1年間受験勉強をし続け、学力をキープするのは想像以上に大変だったようです。

そして、2年目。彼は2浪を決意し、再度東大を目指します。
妹さんの話によれば、この時の努力は常軌を逸したもので、まさに努力の鬼。周りの家族が見ても恐ろしいと思ってしまうほどの努力量だったといいます。

学生時代のエピソードとして有名なのが、参考書の暗記です。彼は、集中するために家を飛び出し、外で勉強をしていました。その勉強に向かう姿勢は非常にストイックで、その本の内容を完全に覚えるまでは家に帰ってこないし、食事もしないというルールを自分で決めていたようです。

こんなストイックなルールを決めたところで、常人では到底達成できないか、もしくは途中でルールを変更してしまうのがオチでしょう。

しかし、彼は違います。自分で決めたルールは守り抜くと、本気で本の内容を覚え切るまでは帰宅せず、食事も一切取らなかったといいます。

この受験期のエピソードを見ても分かる通り、マッスル北村さんは決して学問という面で才能があったわけではありません。これは本人も認めています。(性格的に本当に才能があったとしても認めないとは思いますが・・・)

才能がなかったとしても、人の3倍、5倍、10倍努力することができれば、大きな結果を残すことはできるということを、身を持って証明してくれたのがマッスル北村さんです。受験期のエピソードだけでも、相当な刺激をもらうことができますが、才能がなかったとしても常軌を逸した努力によって目標を達成してしまうということは、その後の人生でも身を持って実証していくことになります。

高校時代は勉強以外にもボクシングや競輪に打ち込む

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進学校に通っていた北村少年は、勉強だけでなく、スポーツにも大きな関心を持っていました。具体的には、ボクシングや競輪です。

実際に、競輪に関しては高校時代にプロの競輪選手を目指すほどにまで熱中しており、当初は大学進学をせずに競輪選手の道を歩むことを考えていたほどです。このときも、彼は常軌を逸した努力で周りを驚かせます。

有名な話ですが、彼は高校時代に自分の部屋で独自のトレーニングに毎日励み、肉体改造をしていきます。ある日、彼は深夜の2時に家を出発して、距離およそ200kmの道のりをただただ走り続けるという荒行を計画します。

有言実行を大切にする彼は、この無謀とも思える計画を実際に実行に移し、16時間一切の休憩を挟まずに走り続けました。

その道中、家から持参していた牛乳を水分補給のために飲みますが、その道中で牛乳は腐ってしまい、一気に飲み干した後は記憶がまったく無く、倒れてしまったと語っています。

また、ボクシングに関しては、ある人との出会いがのちの彼の人生に大きな影響を与えます。その人物というのは、ボクシングジムの先輩で、プロボクサーを目指して練習に打ち込む人でした。

その人は、アルバイトをしながら生活費とジム代を稼ぎ、毎日ボクシングのトレーニングに励む一人の青年でした。この姿を見た北村少年は、非常に感銘を受け、自分もこんな人生を送りたいと思ったといいます。

ここで重要なのは、その人物というのは別にプロでもなければ、なにか大きな結果を残しているわけではないということです。プロボクサーになるという目標に向かって、すべてを投げ打ち、必死に努力しているという過程、その姿に感銘を受けたのです。

このようなボクシングジムで実際に見たひたむきな努力というものが、後の人生に大きな影響を与えたということはマッスル北村さん自身も語っています。

東大時代にはボディビルに夢中に

晴れて東大合格を果たしたマッスル北村さんでしたが、実際にまともに東大に通ったのはわずか1週間ほどでした。

その理由はボディビルとの出会いにあります。彼がボディビルと出会ったのは東大の入学直後。ボディビル&ウエイトリフティング部の先輩に連れられて、部活の見学に訪れたのがボディビルとの出会いでした。

彼は高校時代にボクシングをやっていたので、ある程度体には自信があったものの、目の当たりにしたボディビルダーを見て唖然。自分の体と比較した時の自分の体の小ささや細さに絶望したといいます。このときの感情をマッスル北村さんは『恥ずかしくて泣きそうだった』とも語っており、非常に悔しかったことが読み取れますね。

そこから本格的なボディビルダーへの道がスタートし、そこでも常軌を逸した努力を行いました。

体を大きくするために、通常の食事以外に卵を1日20個から30個、牛乳を3リットルなど、異常とも思える食事量を取り始めます。その結果、わずか1年という短期間で40キロの増量に成功し、体もボディビルダーと並んでも引けを取らない体にまで成長します。そして、2年後のボディビルの大会では見事関東学生選手権で優勝をするのでした。

常軌を逸した努力は人生の終わりまで続いた

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彼の常軌を逸した努力は、プロのボディビルダーになったあとも変わりませんでした。むしろその努力量は自分を追い込むためにエスカレートしていき、人間の本能にも逆らうほどの努力をするようになっていきます。

マッスル北村さんのトレーニング方法は、限界を超越した超高強度トレーニングで、高重量のダンベルやベンチプレスを用いて筋トレをしていました。その結果、何度も腱の断裂や組織の破壊などで病院のお世話になり、度々起こす低血糖状態では救急搬送をされたこともありました。

低血糖症状も過酷な減量が原因で、どれだけ体が悲鳴を上げていたとしても、自分が決めたルールは守り通すというストイックさの結果です。

そしてボディビルの世界選手権を控えた2000年に、マッスル北村さんは今まで以上に過酷な減量に励んでいました。徹底的な食事制限によって脂肪を落とし、カロリーの摂取を極限まで行いませんでした。

その結果、彼は深刻な低血糖状態に陥り、それが原因で心不全を併発。救急搬送されますが、助かりませんでした。享年39歳という若さです。

最後の最後まで、自分の決めたルールを守り抜き、努力に生きた人生でした。

なぜここまで自分を追い込むことができたのか?

さて、ここまで見てきてマッスル北村という人がどれほど凄い人物なのか、少しでも伝わったはずです。学生時代、ボディビル時代、どれをとっても普通じゃ真似できないレベルを目指し、本気でその目標に突き進んでいきました。

ここで疑問なのが、『なぜそこまで自分を追い込むことができたのか?』ということです。

今現在、何かに打ち込み、努力をしている人も、なぜその努力をしているのか?と聞かれれば人それぞれ理由があるはずです。努力をしたくても挫折をしてしまったり、中途半端で終わってしまう人のなかには、それだけの努力をすることができる動機が知りたいという人も多いはずです。

この努力の動機に関して、マッスル北村さんは生前、以下のようなことを語っていました。

『鍛えることで自分の道は自分で切り開いていけるという信念があった。』

『鍛えること』というのは、『努力すること』と読み替えてもいいでしょう。つまり、彼は努力の結果としてなにか形に残るものを得たかったのではなく、努力というもので自分自身の道を切り開いていくということにとても大きな意味を見出していたということです。

多くの人の場合、努力は何かしらの明確な目標の上に成り立つものです。例えば、仕事に全力を傾けて努力する場合であれば、それは稼ぎたいという目標や、昇進したいという目標がほとんどでしょう。勉強を頑張る場合であっても、志望校に合格するという明確な目標がほとんどです。

しかし、マッスル北村さんの場合には、一見すると明確に見える目標の裏側に、もっと大きく、かつ凄まじく抽象的な目標があったように思えます。例えば、学生時代は東大に合格するという目標はあったものの、東大に行って何かをしたかったわけではなく、最高峰である東大受験を通して努力をし、超絶な努力の末に東大合格という結果があっただけという見方ができます。

努力の天才はこれからも生き続ける

人それぞれマッスル北村さんの生き方には賛否両論あると思います。

実際にマッスル北村さんを尊敬する人がいる一方で、死んでまで努力するのはさすがに理解できないという声があるのでも事実です。

ただ、それであっても私はマッスル北村さんが大好きです。その努力もさることながら、人間的にもとてもよくできた人です。私が人間的な側面を評価することなど、本当はおこがましくてできないほど素晴らしい人だと思います。

亡くなってしまったのは残念ですが、彼が与えた影響というのはとても大きいと思います。これから先も、彼は多くの人の心のなかに生き続けることでしょう。

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